カテゴリ:教育のこと( 151 )

認められること

人間は誰かに「認められること」を欲している生き物ではないでしょうか。
自分を「認めてくれる」人がひとりでもいて、それを感じることさえ出来れば、
人間は生きていけるのではないかと思います。

ただ、私たちが世間で「認められる」場合のほとんどは、
「条件付き」ということになるのではないでしょうか。

「成績がいいから認められる」。
「マジメに働くから認められる」。
「人に親切にするから認められる」・・・などなど。

私自身、「子供のため」と思って仕事をしている部分もありますが、
正直なところ、「自分の生活のため」にやっていることも否定しません。
すべての子を「認めている」つもりであっても、
私も人間ですから、やはり腹が立つこともあります。
それに、子供たちの将来に私が責任を負うことも、不可能です。

つまり、他人を「無条件」で「認める」ということは、
それだけ難しいことではないかと思います。

ただ、この「無条件」で「認める」ことが出来る人、世の中にいないことはありません。
それは言うまでもないことですが、「親御さん」です。

親に「無条件」で「認められている」という安心感があるからこそ、
子供は、ちょっとした悪さをしたり、反抗期になることもできるんです。
子供のイタズラや反抗期は、
「そのくらいで親が自分を見捨てるわけがない!」という安心感からくるものだと思います。

どうでしょう?
そう考えると、子供の反抗もなんだか気が楽になってきませんか?

子供の反抗のほとんどは、時間が解決してくれます。
でも、大人になってからの反抗は、ときに取り返しがつかないことになることもあります。
小さい頃からの「しつけ」も、もちろん大事ですが、
子供のうちに、少しずつ「ガス抜き」させることも大事なことだと思いますよ。

親にすら認めてもらえなくなってしまった子の多くは、
「夜の世界」に飛び出すか、部屋に引きこもるかのどちらかだそうです。
そこから、最悪の事態を招くこともあり得ます。
「無条件」で「認められる」ということは、
人間にとってそれだけ大切だということですね。
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by sawayoshi45 | 2006-02-10 00:41 | 教育のこと | Comments(3)

「やればできる!」ってホント?

「やればできる!」という言葉、よく使いがちな言葉ですよね。

親が子供に向かって、「あなたはやればできるんだから・・・」
教師が生徒に向かって、「お前たちだって、やろうと思えば何でもできる!」
そして親が教師に向かって、「うちの子、ホントはやればできる子なんですけど・・・」

私も子供たちの成績が上がると、
「なんだ、やればできるじゃん!」と、つい言ってしまうことも正直多いです。

でもこの言葉、こんなに安易に使っていいんでしょうか?

この「できる!」の基準は、「要求水準」によってまちまちです。
たとえば、親が我が子に「東大合格」を要求している場合と、
「クラスの平均点」を要求する場合では、
「できる!」の基準は大きく変わるということです。

「クラスの平均点」ぐらいであれば、
まあ、何とかできないこともないかも知れませんが、
「東大合格」を要求された子供にとっては、
「やればできる!」という言葉は、大変な重荷になってしまうのではないでしょうか。

ここでちょっと話は変わりますが、
私は高校に入学したとき、ほとんど「ビリ」に近い成績でした。
1年の前半までは、その成績を保って(?)いました。

でも、こんな私でも、さすがに「このままではヤバい!」と思い、
一念発起して勉強に取り組んだ時期があります。
たしかにその時は苦しかったですが、「このオレにできないわけがない!」
というまったく根拠のない自信で、なんとか乗り切りました。

その後の私は、どんどん成績も上がり、
「もしかしたら、このままトップクラスに入れるかも」とまで思いましたが、
その期待もむなしく、ある程度のところで「上昇気流」はパッタリととまりました。
けっしてサボったわけではないんですが・・・。
やはり上には上がいるものです。
これがその頃の私の「実力」だったんでしょうね。

さて、なぜ私がこのような話を持ち出したのか。
別に自慢をしたかったわけではありません。

私は自分に対して、「やればできる!」と言い聞かせることで、
何とかがんばってこれたのだと思います。
これがもし、親や教師に、
「お前はやればできるんだから!」と言われてせかされていたら、
「あまのじゃく」の私は、きっといつまでたってもやらなかったか、
親や教師に反抗していたかのどちらかだと思います。

つまり、「やればできる!」という言葉は、
自分に対して使う場合はいいですが、
他人に対して使う場合は、逆効果になることもあり得るということです。

私の尊敬する関根正明先生がよく使われる言葉を借りれば、
「やればできる!」というよりも、
「やれば力がついてくる!」といった表現のほうが適切ではないかと思います。

「やればできる!」という言葉は、何だか基準があいまいですが、
「やらなければできない!」という言葉は、真実といっていいかも知れませんね。


ところで昨日、「内観」の大切さについての記事を書いたのに、
今日(ホントは昨日)のニュースによると、
なんと、あの東横インの西田社長も「内観」をいつもしていたとか。
う~ん、自分が思っているほどあまり意味がないってこと?
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by sawayoshi45 | 2006-02-08 00:51 | 教育のこと | Comments(2)

学力と人間性は別!

スポーツの得意な人が人間的に優れているとは限らないのと同様、
学力の高い人が必ずしも人間的に優れているとは限りません。
これはみなさんもご存知のことだと思います。

学力は学力、人間性は人間性として、わけて考えなければなりません。
当然、その評価もわけるべきではないかと思います。

なのに、子供たちの通知表(特に中学校)をみると、
なんだかそのあたりが「ゴチャマゼ」になっているような気がしてなりません。
まあ、これは学校システムの問題でしょうから、
ここで私がひとり騒いだところでどうなるものでもないのですが、
それでもやっぱり気になってしまうのです。

過去に受け持った生徒のお話です。
その子は、私からみて数学の力がとても高いように思えました。
「じっくり考える」こともでき、論理的思考力も優れていました。
学校の試験でも80点、90点台の高得点を取っていました。
学力だけでみれば、5段階で「5」とは言わないまでも、「4」の力は十分あったと思います。

ただ、ちょっと性格が大人びているというか生意気というか・・・、
先生受けはあまりよくなかったようです。
怠け者のところもあって、提出物もサボリ気味だったと思います。
そういったところが影響したんでしょう。
彼の数学の成績は、「2」と「3」を行き来するだけでした。

あまりに納得がいかず、学校に抗議に行こうかと思いましたが、
彼の学校生活に影響があるといけないと思い、そこは思いとどまりました。

でも、これってやっぱり変だと思いませんか?

数学の評価は、あくまで「数学の力」だけを評価して欲しいと思うのは、
私だけでしょうか?


たしかに、彼の素行には多少問題があったかも知れませんが、
それと「数学」の評価は別物として評価してもらいたいものです。

彼とは逆に、あまり力がなくても、
「ノートがきれい」「提出物はきちんと出す」「授業中に発言が多い」・・・といった理由で、
実力以上に評価されてしまう生徒もいます。
こういった子は、はたして自分の力を客観的に把握できているのでしょうか?

今まで多くの子供たちと接してきて、
長年、疑問に思っていることを今回書いてみました。

「学力」はあくまで「学力」としての評価、「人間性」はあくまで「人間性」としての評価

何とか学校でもこの区別、出来ないものでしょうかね。
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by sawayoshi45 | 2006-01-30 01:57 | 教育のこと | Comments(6)

理解するということ

昨日の記事では、「自分を認めて欲しい、理解して欲しいと思うなら、
まず自分が相手を認め、理解する努力をするべきだ」ということを、
エラそうに語りました。
そこで今日は、「理解する」ということについて、少し掘り下げて考えてみようと思います。

私たちは、よく簡単に「わかった!」と言いがちですが、果たしてそれは本当でしょうか? 
「理解する」というのは、そんなに簡単に出来ることではないはずです。
本当はあまり「理解していない」のに、何となく「理解したつもり」になっていること、
意外に多いのではないかと思います。

もちろん、この私も例外ではありません。
今まで、このブログで書いてきたことで、本当に「理解して」書いたものがどれだけあるか、
はなはだ疑問でございます。

・・・・・・(自省中)・・・・・・

「理解する」は英語で「understand」と言います。
中学校で習う英単語ですね。
この単語がでてくると、私はよく子供たちにこう聞きます。
「『under(下に)』と『stand(立つ)』がくっつくと、
どうして『理解する』という意味になると思う?」と。

この言葉、私はこのように捉えています。
「相手を本当に『理解する』ためには、相手の『下に立つ』必要がある」と。
つまり、相手を上から見下ろして見ている限り、
相手を本当に「理解する」ことは出来ない、という意味です。
こう言われても、子供たちはあまりピンとはきていない様子ですが、
まあ、いつかわかってもらうときがくればいいかなと思って話しています。

夜の星はきれいに輝いて見えますが、昼は見えませんよね。
星は確かに存在しているはずなのに、見えません。
これは何を意味しているか、私なりに考えて見ました。

「暗い場所」から「明るい場所」はよく見えます。
でも、「明るい場所」から「暗い場所」はなかなか見えにくいということ。

これを人間に例えると、
「下の立場にいる人間(子供)」から「上の立場にいる人間(大人)」はよく見えるけども、
「上の立場にいる人間(大人)」から「下の立場にいる人間(子供)」は見えにくい、
ということではないでしょうか。

「子供のイジメや苦しみに、親や教師がなかなか気づかなかった」
というのはよくある話ですよね。
まあ、本当に「気づかなかった」のか、
「気づかなかったフリ」をしているかは定かではありませんけど・・・。

結局、何が言いたいか。

「子供を本当に理解するためには、大人の目線ではなく、
子供の目線で考える」ことが大切だということ。


一番いけないことは、

ほんの数冊の本を読んだだけの「うわっつらの知識」で、
「理解したつもり」になってしまうこと

ではないかと思います。

ん? これってもしかして私のことかも。
とすると、今日書いたこの記事も、何だか自信がなくなってきました。
みなさん、これを「鵜呑み」にしてはいけませんよ。
あくまで、参考程度に読んでいただくということで、お許しください。

・・・・・・(自省中)・・・・・・

う~ん、人間って、たくさんの「矛盾」を抱えた生き物ですね。
まあ、それに気づけくことが出来ただけでも、この記事を書いた意味があったってもんです。
それでは、また明日・・・。
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by sawayoshi45 | 2006-01-22 00:15 | 教育のこと | Comments(2)

過保護のススメ

「過保護」といっても、
「子供のわがままを何でも聞く」とか
「子供が欲しがるものを何でも与える」といったことではありません。
それは「過保護」ではなく、「誤保護」です。
私がここでいう「過保護」とは、ちょっと言葉にすると気恥ずかしいのですが、
「愛情をたっぷり注ぐ」ということです。

ですから、その子のことを本当に思うのであれば、
当然ときには「愛のムチ」をふることもあり得ます。
ただ、そんなときは、その後のフォローもしっかりしておく必要があります。
「1回叱って、10回褒める」ぐらいの気持ちでいるのが、ちょうどいいのではないかと思います。そういったことを全部ひっくるめての「過保護のススメ」です。

ライオンは、我が子を自立させるために、
子供を崖から突き放すという話を聞いたことがあります。
自分の子供を自立させるためには、そのぐらいの「覚悟」が必要だということでしょうか。

私にはまだ子供はおりませんが、もし自分に子供がいたとしたら、
それだけの「覚悟」を持てるかどうか、ちょっと自信がありません。
まあ、人間がやったら大変なことになるでしょうけど・・・。

「夜回り先生」で有名な水谷修先生。
彼が言うには、
最近の若者には「自分病」という病気(?)にかかっている人が多いそうです。
「誰も私を認めてくれない」、「誰も私をわかってくれない」といっては、
世間や社会に不満を持つ「病気」だそうです。

そんな若者に向けて、水谷先生は優しくこう言います。
「近所のおばあちゃんに、やさしい声をかけてあげなさい。
まわりの人に、親切にしてあげなさい。
そしたら、いい気分になれるから」と。

自分のことをどうこう言う前に、まわりの人たちに「愛情を注げ!」ということですね。

「自分さがし」という言葉を、最近よく耳にします。
でもこの言葉、私はあまり好きになれません。
私にはこの言葉は、どうしても、
「今の自分はこんなもんじゃない。自分にはもっとすごいところがあるに違いない!」
と言っているように聞こえてなりません。
今の自分を認めて、はじめて先にすすめるのではないかと私は思っています。

「自分さがしの旅」をしている時間があるなら、もっと身近な人に目を向けて、
やさしい言葉や感謝の言葉のひとつでもかけられるようにしたほうが、
よっぽど本当の自分をさがすことが出来るのではないかと、
私は思うのですが、みなさん、いかがでしょうか。

「ギブ&テイク」という言葉があります。
これは、あくまで「ギブ&テイク」であって、「テイク&ギブ」とは言いません。
あくまで「ギブ(与える)」が先なんです。
つまり、自分を認めて欲しい、理解して欲しいと思うのであれば、
まず自分が先に人を認める、人を理解しようとする心が必要だということだと思います。

「情けは人のためならず」。
「愛情」というのは、巡り巡って、必ず自分のところに帰ってきます。
これが私の言いたい「過保護のススメ」でございます。

そういえば、これを書いていて、ふと思い出しました。
先日、受験生の子を持つあるお母さんが、帰り際に、私にこんなことを言ってくれました。
「受かる受からないは関係ないんです。
この子がひとつの目標に向かって頑張ることが、
この子の将来に役に立てばいいと思ってます」と。

別に私が褒められたわけではありませんが、
この言葉を聞いたとき、私は目頭が熱くなりました。
なぜか、涙が出るぐらい嬉しかったんです。
この時期になって、こんなことが言えるお母さん、私は感動しました。
こんな素敵なお母さんに会えたことに、とても感謝しました。

そして、あまりの嬉しさに足元がふらついていたんでしょうか。
帰りみち、雪道に滑ってこけそうになったのをよく覚えています。

今日は「大寒」でしたが、これを思い出した私はちょっと「ホット」な気持ちになってます。
それでは、明日(もう日付はかわっちゃったから今日ですね)、
センター試験を受ける受験生のみなさん、
受かる受からないを考えるよりも、自分の力を発揮することが大事です。
がんばってくださいね。
といっても、受験生のみなさんがこの記事を読む頃は、
もう試験終わってますよね、きっと。
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by sawayoshi45 | 2006-01-21 00:02 | 教育のこと | Comments(0)

危険な種は蒔かないほうが・・・

今までの私のブログをいくつか読んできてくれた方なら、すでにお気づきだと思います。
私は、このブログ上で普段の授業の様子や、
現在担当している子供たちのことは一切書いておりません。
これからも書くつもりはありません。
これには一応、私なりの理由があります。

まあ、カッコよく言うと、「子供の権利や名誉を守るため」です。

たとえ名前を隠して書いたとしても、私の身近な人が読めば、
誰のことを書いているか知られてしまう可能性があります。
また、もし子供たちや親御さんが読んだとすれば、
「先生は○○君のことばっかり書いている」と思われ、
不公平感を招くかも知れません。

たとえ、その可能性は極めて低いことであったとしても、
まったくのゼロでないことは確かです。
可能性がゼロでない以上、やはり、
「子供の教育に携わっている人間」がやるべきことではないと思うのです。

なかには子供の成績の推移をこと細かく載せていらっしゃる方がいます。
塾の「宣伝」の手段としては有効な方法かも知れませんが、
私には理解しがたいことです。
それによって、子供が名誉を傷つけられたり、
イジメにあう可能性、ゼロだと言えますか? 

「親」と「教育者」は、「子供を守る」ために、細心の注意を払う義務があると思います。

自分の子供の写真をネットに公開されている方がいらっしゃるようです。
「可愛い子供をみなさんにも見てもらいたい!」という気持ち、
わからないでもありませんが、最近子供が狙われる事件、多いですよね。
その「可愛さ」ゆえに、それを見た誰かが、
何か悪いことでも考えたとしたらどうしますか? 
その可能性、ゼロだと言えますか? 
ことが起きてからでは遅いんです!

「危険な種」は極力蒔かないに越したことはないかと思うんですが、いかがでしょう?
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by sawayoshi45 | 2006-01-15 00:45 | 教育のこと | Comments(7)

子の心、親知らず

「人間は自分が経験したことしか、本当に理解することは出来ない」
というのが私の持論です。

私の両親は戦争経験者です。
子供の頃は、よく戦争の話を聞かされて育ちました。
食べるものすらなかった時代の苦しみは本当に辛いものだったと思います。
「人間は苦労しなきゃダメだ!」というのが私の母の口癖です。

でも、私は戦争を経験したことがありません。
頭の中では「理解したつもり」になっても、本当に「理解している」とは言えません。
ちょっと冷たい言い方かも知れませんが、
母にいくら「戦争の苦しみ」を訴えられたとしても、
私が本当にその苦しみを「理解する」ということは不可能なんだと思います。
もちろん、少しでも「理解しようとする」ための努力は大切だとは思いますが・・・。

「親の心、子知らず」という言葉がありますが、
これはよく考えてみれば、当たり前のことです。
「子供」には「親の経験」がないんですから。
「親としての経験」のない「子供」に、いくら「親の立場」を理解しろといっても、
わかるはずがないんです。
少しでも理解してもらいたいのであれば、「親の目線」ではなく、
「子供の目線」に立って会話をするしかありません。
どの「親」であっても「子供の経験」は持っているはずですから。

最近、子供の「学力低下」が取り沙汰されています。
これを聞いた世の大人たちは、
「今の子供は全然勉強しなくなった」、「今の子供はまったくやる気がない、無気力だ」
と言っては眉をひそめます。

でも、よく考えてみてください。

私たちが子供だった頃と、今では、育つ環境がまったく違っているはずです。
テレビや漫画はもちろんのこと、
ゲーム、パソコン、ケータイと世の中には「勉強より面白いモノ」が満ちあふれています。
もし、私たちが今子供だったとしても、
そういった誘惑に負けることなく、勉強することが出来るという自信のある方、
どれだけいるでしょうか? 
少なくとも、私にはまったく自信がありません。
きっと今ごろ、ゲームやケータイに興じていることでしょう。

そういった「環境の違い」を考慮せず、
「今の子供たちは・・・」と言っては顔をしかめることこそが、
私は問題ではないかと思います。

そもそも、このような「子供が勉強しにくい環境」をつくったのは、
いったい誰なんでしょう? 
私たちは、自分たちのやってきたことを棚に上げ、
「今の子供たちは・・・」と言ってはいないでしょうか? 

それはまさに、「子の心、親知らず」ということにならないでしょうか?

自分が子供だった頃、親に言われて「イヤだな~」と思った言葉、
大人になってから子供に浴びせていないでしょうか。
これはもちろん、私自身にも当てはまることですが、
よく考えてみる必要があるのではないかと思います。

「親の心、子知らず」は、子供に責任があるわけではありません。
でも、「子の心、親知らず」は明らかに私たち大人に
責任があるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。 


注)「子の心、親知らず」という言葉は、私が尊敬している関根正明先生の著書のタイトルです。私がこの本を拝読したのは、もうだいぶ前のことなのですが、今でもこの言葉は私の頭の中にこびりついています。関根先生のホームページは、とても参考になることばかりですので、皆さんもぜひお立ち寄りください。
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by sawayoshi45 | 2006-01-14 00:30 | 教育のこと | Comments(0)

人生に冒険はない!

先日お亡くなりになったプロスキーヤーの三浦敬三さん。
彼の記事が7日の北海道新聞に掲載されていました。
とてもいい話だったので、みなさんにも紹介させていただきます。

彼のエッセー「101歳の少年」(実業之日本社)には、次のように書かれているそうです。

わたしの人生には「冒険」はないのです。すべては積み重ねなんです。若い時から続けてきたことの延長線にすぎません。・・・・・山は一歩ずつ歩を重ねることで、必ずその頂上にたどり着くことができる。
      (中略)
今日もスキーができた。明日、また新しい雪山に登る。・・・・・そうやって、わたしは生きています。

99歳でモンブラン最長の氷河を滑走した彼が、
「わたしの人生には冒険はない!」と言い切っているのが意外な感じで、
とても印象に残りました。
私のおよそ3倍の人生を生きてきた彼の言葉ですので、
これはきっと間違いのない「真実」だと思います。

私たちは、とかく「結果」を早く出したがる傾向があります。
自分に対してそれを課すならともかく、
ときに他人(子供も含む)にそれを課そうとすることがあります。

「いつまでやってんの?」「早くしなさい!」「いつになったら成績上がるの?」・・・などなど。

こういった言葉、言うのは簡単ですが、
言われるほうにとってはたまったもんじゃありません。
せっかくやろうと思っていたとしても、
これを言われたら、「やる気」も失せるってもんです。
「今やろうと思ってたのに・・・」というのは、昔から子供がよく言う言葉ですよね。
これを言わせるたびに、
子供の「やる気」はだんだん失われていくといっても過言ではないでしょう。

「教育」とは「待つ」ことでもあります。
そりゃあ時には「鞭打つ」ことも必要だと思える場合もありますが、
それ以上に大事なのは、
子供が自分の足で一歩一歩積み重ねていくのを「待つ」ことだと思います。
「教育」に携わる人間には、それだけの「忍耐力」も必要だと思います。

そして、子供たちにも、
「人生に冒険はない」「すべては一歩一歩の積み重ね」
ということを教える必要があると思います。
また、自分の夢を実現させるためには、
「今は何をやるべきなのか」「今自分に出来ることは何なのか」ということを、
子供たちに真剣に考えさせることも大事なんじゃないかと思います。

最後に私自身も、「一歩一歩積み重ねていく」人生を歩まなければいけないなって、
改めて思いました。
人生に冒険はありません。
人生に偶然もありません。
すべては「必然」なんですよね、きっと。

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by sawayoshi45 | 2006-01-09 02:29 | 教育のこと | Comments(0)

学校と塾の関係

学校が「オモテ」の教育機関だとすれば、
塾や予備校、家庭教師という存在は「ウラ」の教育機関です。
そうあるべきだと私は考えています。
最近、この関係が逆転しかかっているのが、私としてはちょっと気になります。
仮に逆転現象が起きてしまった場合、ちょっと大げさな言い方かも知れませんが、
教育は崩壊の道を歩むのではないかと思います。

一般に「塾の先生のほうが学校の先生より授業がうまい」と言われています。
その理由は、「塾は授業のうまい先生しか生き残れない世界」だからだと思います。
親御さんから高い授業料を頂いている以上、授業のヘタな先生はたちまちクビにされます。
結果、授業のうまい先生だけが生き残っていくことになります。

ただ、だからといって「やっぱり塾の先生のほうが優秀だ!」と思うのは軽率です。
仮に30人の生徒を相手にして授業をする場合、
「ある程度やる気のある生徒が集まった30人」と、「不特定多数が集まった30人」では、
授業のやりやすさはまったく違ったものになります。
当然、前者のほうが授業は進みやすく、結果も出やすいはずですよね。

私なんて、1回の授業で相手にするのはせいぜい2人までです。
30人を相手に授業をするなんて、正直言ってまったく自信がありません。

私自身、塾や習い事に通った経験は一度もありません。
そのせいか、
「学校の勉強さえしっかりやっていれば、勉強は十分」という考えを持っています。
ですから子供に教える場合も、授業の前に必ず学校の進み具合を確認し、
それを補佐する形で授業を進めます。
ごくたまに、予習ということでちょっとだけ先を教えることもありますが、
進み過ぎることはないように気をつけています。

子供の勉強のメインはあくまで学校であり、
私たちのような「ウラ」の人間はサブ的な役割に徹するべきだと思っています。
ですから、宿題を出すときも、
必ず学校の宿題を優先させてから私の宿題をやるように子供たちには言い聞かせています。「塾の宿題で忙しくて、学校の宿題が出来なかった」というのは、それこそ「本末転倒」です。

そのへんのところを勘違いなさっている塾の先生や家庭教師の方をたまに見かけます。
学校の先生方の事情も考えず、
「オレはたくさんの生徒の偏差値を上げてきた、いったい学校の先生は何をやってるんだ!」
と言っては、子供の前で自分の自慢をし、学校の先生をバカにする方たちです。

でも、こういった方たちはただの「教え屋」であって、決して「教育者」ではありません。
なぜなら、教育の目的のひとつは、「思いやりのある子」
つまり「人をバカにしない子」を育てることだからです。
「思いやりのない先生」に勉強を教わった子供たちが、
将来「思いやりのある人間」に育つとは思えません。
さらに言えば、
こういった人たちが子供たちのイジメを助長していると言っても過言ではないと思います。

学校と塾は、決して敵対関係にあってはならないと思います。
さきほども書いたように、「不特定多数の30人」を相手にした授業は容易ではありません。
そこには、どうしても「授業についていけない子」が出てくるのは、
仕方のないことだと思います。
そして、
そういった子が少しでも学校で楽しく過ごせるようサポートしていく役割を担っているのが、
塾なんだと思います。

つまり、学校と塾とはお互い「共存共栄」の関係になくてはならないと思います。

また長くなってしまいましたが、最後にもうひとつ言わせてください。

教育の主役は、学校でもなければ、親でもありません。
まして塾であろうはずがありません。
教育の主役はあくまで「子供」です。
「教育者」を名乗っている私たちの仕事は、子供の黒子役に徹することです。
子供に「踏み台にされる」ことはあっても、
「子供を踏み台にする」ことは絶対にしてはいけないことです

しかし最近、自分の名前を売るために、
子供を「踏み台にする」ような「教育者」が増えてきたような気がするのがとても残念です。
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by sawayoshi45 | 2006-01-07 01:00 | 教育のこと | Comments(4)

教師なら理想を語れ!!

「教育の目的」は、勉強のよくできる「いい子」をつくることではありません。
5年後、10年後、その子が大人になったときに、
「立派な社会人」として生きていくためのものだと思います。
「立派な社会人」とは何も一流企業に就職するとか、社会的地位を手に入れるとか、
お金持ちになることではありません。
もちろん、結果的にそうなる場合もありますが、それが「教育の目的」ではないはずです。

私が考える「立派な社会人」とは、どんな状況においても、
自分を失うことなくしっかりと地に足をつけて生きていくことができる人間のことです。
勉強を教えることを通じて、ひとりでも多く、
そういった人間を育てることが「教育の目的」であり、「私の理想」でもあります。
「理想」は、人によって多少の違いはあるとは思いますが、
「教える立場」にいる人間であれば、みなさん、
「自分の理想」を抱いて仕事と向き合っているはずだと思うし、
また、そうあるべきだと思います。

私がこんなことを言うと、
「それはただの理想論だ」とか「現実はそんなに甘くない」と反論してくる人たちがいます。
嘲笑する人たちもいます。
「理想論」だということは分かっています。
現実はそんなに甘くないのもわかっています。
でも、だからといって、簡単に「理想」を捨てて現実に甘んじるような人は、
少なくとも「教育者」には向いていないと思います。
子供たちがそんな先生に人間的魅力を感じるとは思えません。
周りに何と言われようと、
「理想」を語り続けることが「教育」には大切なことだと思っています。

よく親御さんから、「うちの子はやる気がなくて・・・」という言葉が出てきます。
そう言われた子の過去を遡って聞いてみると、
だいたい「やる気がなくなるような言葉」を親や教師から、
浴びせられていることが多いです。
最初からやる気のない子供はいません。
成長の過程で、
「やる気のない子にさせられている」というのが真実ではないかと思います。

子供が「夢」や「理想」を語ったとき、あなたはどう接していますか?
「そんなの無理に決まってる」「それで食べていけるわけがない」
といった言葉を浴びせていませんか? 
そうやって子供たちから少しずつ「やる気の芽」を奪っていることに気づいていますか?

「教師なら理想を語れ!!」

昨日のテレビ番組で、
太田光が政治家に対して「政治家なら理想を語れ!」
と訴えたことが妙に印象に残っていたので、
「政治家」を「教師」に変えて今日はこのテーマで書いてみました。

教えることも教師の仕事ですが、子供の前で「理想を語る」ことも、
教師としての立派な仕事だと私は思います。
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by sawayoshi45 | 2006-01-05 01:16 | 教育のこと | Comments(0)


【札幌の家庭教師 学びの森】   サワダと申します。


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