カテゴリ:人生のこと( 86 )

360度の視点

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「DVD動かないよ」と義母が朝から大騒ぎ。
「え? 壊れちゃった?」と妻もいっしょに大騒ぎ。
でもよく見ると、「オモテ」と「ウラ」が逆に・・・。
こういうのを「天然親子」って言うのかな?



人と接する仕事をしている以上、
360度の視点で物事を見られる人間になりたい、そう思います。

人間は自分の経験を基にして、話をしたがります。
これは私も同じです。
でも、人ひとりの経験なんて高が知れていますよね。
360度のうちのほんの10度か20度がせいぜいかも知れません。

だから、私たちは本を読んだり映画を観たり、または他人と接することを通して、
少しでもその視点を広げようとします。
勉強もそのひとつですね。

視野が狭い人は、自分の思いしかありません。
人の話には耳を傾けず、自分の思いを主張することに一生懸命です。
相手の立場を考える心の余裕がなく、自分のことを「もっとわかって欲しい」と訴えます。
これを「自分病」とも言うそうです。

「正論100%」という人がいます。
言うことなすこと、すべてが「正しい」。
「正しい」から、反論の余地もありません。
でも周囲にいる人は「正し過ぎる」が故に、逆に疲れてしまうことってありますよね。

「水清ければ、魚住まず」という言葉もあるように、
「正し過ぎる」人には、周囲の人は近寄りがたさを感じます。
でも、「正論100%」の人には、このことがよくわかりません。

「自分は正しいはずなのに、どうして周りはわかってくれないんだ」と孤立し始めます。
「オモテ180度」の勉強は完璧なのに、
「ウラ180度」の勉強をしてこなかった人といったところでしょうか。

人間は、やはりどこか抜けたところというか、
良い意味で「隙のある人」のほうが、周りの人も安心して付き合えるということですよね。

自分を理解して欲しければ、まずは相手を理解しようとすること。
相手を理解するということは、相手を「ゆるす」こと。
同時に、自分の「弱さ」「醜さ」を認めることではないかと私は思っています。

物事には必ず「オモテの面」と「ウラの面」があります。
(DVDにも「オモテ」と「ウラ」があります!)。
「360度の視点」とまではいかなくとも、
せめて「オモテ」と「ウラ」の2つの視点から、物事を見られる人間になりたいなと思います。

「最近の若者は定職にも就かず・・・」と言って、
ニートやフリーターを非難する人がいます。

でも最近の若者が、みんな真面目にバリバリ働き出したら、
その人はリストラの対象にされるかも知れません。
定職を失って、家のローンを抱えたまま、路頭に迷うことになるかも知れません。
それでも、「最近の若者は・・・」と言っていられるでしょうか?

「自分だけは大丈夫!」という物の見方は、視野が狭すぎると思います。

夢のため、野望のため、成功するため・・・、
自分の思ったとおりに突き進むのもいいですが、
あらゆる可能性を考えて行動しないと、
後で取り返しのつかないことになるかも知れません。

だから私たちは、視野を広げるために勉強しなければならないのだと思います。

学校の勉強だけが勉強ではありません。
学校の勉強はあくまで「オモテ」の勉強。
人生においては、「ウラ」の勉強もしておく必要もあるかと思います。

「善悪の判断」は、「善」と「悪」の両方を知らなければ出来ない。
最近の私の口癖でございます。
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by sawayoshi45 | 2006-05-17 23:59 | 人生のこと | Comments(2)

ススキノ徒歩5分

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交流戦第2戦。
これまた延長戦の末、今度は中日の勝ち。
昨年から、私が応援に行った日は負けて、
行かなかった日は、勝っているような・・・。
う~ん、ちょっと複雑な気分・・・。




私は今、「ススキノ徒歩5分」の場所に住んでいます。
「ススキノ」といえば、みなさんご存知のように札幌一の「歓楽街」。
近所を歩いていても、スーパーで買い物をしていても、とにかくいろんな人を見かけます。

ちょっとガラの悪そうなお兄さん。
こわもてのおじさん。
かなり派手めなお姉さん(おばさん?)。
「もしかしてニューハーフ?」と思われるお姉さん(お兄さん?)・・・などなど。

人によっては、いかにも「住み心地の悪い場所」と思われる方もいるかと思いますが、
実は私、こういった場所は決して嫌いではありません。

こういった方たちと直接接点があるわけではありませんが、
「人間観察」が好きな私にとっては、
こういった人たちの言動から刺激を受けることも多く、
むしろ、とても「住み心地の良い楽しい場所」だと思っています。

お恥ずかしい話ですが、私は学生の頃、
友人に誘われてパチンコにハマッたことがあります。
ただ、一応「お恥ずかしい」とは書きましたが、決して後悔しているわけではありません。

それまでの私はどこか「優等生」ぶった「世間知らず」の人間だったからです。
進学校と呼ばれる高校に通わせてもらい、大学も一応、国立大学。
俗に言う、「世間知らずのお坊っちゃん」だったと思います。

学生時代、レンタルビデオ屋さんでアルバイトをし、
そのアルバイト代をパチンコに費やしていた時期がありました。
今思えば、とんでもない「バカ学生」だったわけですが、
まあ、過去を変えることは出来ませんから、これもしかたありません。

でもそのお蔭で、自分が今まで知り合うことがなかった人との接点が生まれました。
もちろん、子供をほったらかしにしてパチンコにハマるような主婦などは論外ですが、
こういった、世間的にどこか「引け目」を持った人たちとの付き合いは、
これはこれで私の大きな「財産」だと思っています。

自分にも多少「引け目」があるからこそ、他人にも寛大になれる。
そんな人が多かったような気がします。

北海道はまだそうでもありませんが、首都圏の学校は「私立ブーム」です。
世間では「格差社会」が問題になっていますが、
「私立」と「公立」の「学力格差」もますます広がっていく感があります。

私立中学を否定したいわけではありませんが、
似たような立場、似たような考えを持つ者ばかりが集まった環境の中で、
中学、高校、ときには大学まで過ごすということに、私は少し疑問を抱いています。

「一流の人(何をもって一流というのかはよくわかりませんが・・・)と付き合うことが大事」
という人もいらっしゃるようですが、
私はむしろ、いろんな人の存在を知ることこそ、大切なことではないかと思っています。

教育に携わる人間であれば、なおさらのことですよね。

「教育者」だからこそ、
いろんな人間がいて、いろんな生活があることを知らなければいけない。
私はそう思っています。

「庶民生活」を知らない政治家が、
本当に国民のために働けるかどうか、というのと同じことですよね。

ところで政治家といえば、選挙が近くなると、
電車や自転車に乗って、「庶民性」をアピールしている候補者をたまに見かけますが、
あれはあれで、何だか胡散臭い感じ、しません?

しかも、1人ならならまだしも、カメラマンやマスコミを引き連れて車両の一部を占領。
「あれじゃあ、他のお客さんにとって、いい迷惑なんじゃないの?」と思ってしまうのは、
私だけでしょうか?
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by sawayoshi45 | 2006-05-10 23:59 | 人生のこと | Comments(4)

フジ子・ヘミング

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今日は寒い1日でした。
道東では雪が降ったそうな。
もうすぐゴールデンウィークだというのに・・・。




スピリチュアルな世界のことは正直よくわかりませんが、
美輪明宏さんと江原啓之さんの「オーラの泉」という番組はいつも観るようにしています。

今日はその2時間スペシャル。
仕事から帰って、録画したのを急いで観て、今これを書いています。
ゲストは船越英一郎さんと、フジ子・ヘミングさん、長谷川理恵さんの3人。

みな、それぞれに興味深いお話で、いろいろ考えさせられることが多かったのですが、
その中でも、私が最も感銘を受けたのが、フジ子・ヘミングさんのお話でした。

妻が持っている「美輪明宏のおしゃれ大図鑑」という本に、
ちょうどフジ子さんのことが書かれてあったので、
それをもとに簡単に紹介させていただきます。

フジ子さんはベルリン生まれ。
異国人の父親は彼女が幼い時に家を後にしました。
ピアニストだった母親に厳しくピアノを仕込まれ、
早くから才能を発揮していたにもかかわらず、下手だ下手だとしかられて、
決してほめてもらえなかったとか。
そして16歳の頃、病気で片耳が聞こえなくなってしまいました。

東京音楽学校(現・東京芸術大学)を卒業してもピアニストの職はなく、
留学を志しても国籍問題からなかなか実現せず、
ヨーロッパに渡ったのは30歳になってから。
日本からの送金は少なく、極貧を味わったといいます。

留学生仲間の妬みやそねみもひどかったとか。
約10年後、千載一遇のチャンスをつかみ、
デビューリサイタルを開催するところまでこぎつけたのですが、
練習中に高熱を発し、今度は聴覚を一切失うというトラブルに見舞われます。
まったく音が聞こえないまま演奏した結果、リサイタルは失敗。
それ以後、治療してある程度まで聴覚を回復し、ドイツでピアノ教師の職につき、
時折小規模の演奏会を開きながら、細々と暮らしてきました。

1995年、母親の死をきっかけに、何十年ぶりに日本に帰国。
母校の講堂や自宅でこじんまりとしたコンサートを開き、
それをたまたま聴いた人たちのクチコミによって、
その演奏の見事さは徐々に広がっていきました。
そんな彼女の波瀾の人生を、NHKがドキュメンタリー番組に取り上げたのです。

番組の中、要所要所に流れるフジ子さんの演奏は、
テレビを観ていた人たちの度肝を抜きました。
こんなクラシックは初めて聴いた、どこに行けばCDを買えるのかと、
全国から問い合わせが殺到したといいます。

「簡単に」と言いながら、けっこう長くなっちゃいましたね。

「大器晩成」という言葉がありますが、
ものすごい「遅咲き」といってもいいのではないでしょうか。

私はピアノのことはよくわかりませんが、
彼女が人生で味わってきたさまざまな思いが、彼女の演奏に詰まっているからこそ、
私たちはそれを聴いて、何かを感じるのかも知れませんね。

勉強も同じですが、小手先のテクニックだけじゃ何も伝わらないということですね。
私も気をつけなければと思います。

書きたいことはまだあるのですが、何だか長くなってしまいそうなので、
最後に言った彼女の言葉を紹介して、今日は終わりにしときます。

私は50歳になるまでテレビはなかったのよ。
今の人、みんなケータイ持たなきゃ気が済まないじゃない。
人間なんて食べるものがちょっとだけあれば、健康に生きていけるのよ。

神様は、いつも助けてくださっているのに、それに感謝もせず、
何で人間は「もっと、もっと、もっと、もっと・・・」とやるのかな。

人が持っていたら羨ましがって、
「オレもそれを持たないと不幸せだ」と思うことがとんでもないこと。
(今の人は)自分の中に同じだけの幸せがあるのに、それを見ようともしない。

現代に生きる私たちが、心しなければならない言葉だと思います。
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by sawayoshi45 | 2006-04-24 23:59 | 人生のこと | Comments(2)

人を裁くな

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無料の公立塾ができるそうな。
これって私にとっては死活問題?
う~ん、生き残るって大変よね・・・。




「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない」。
これは「ルカによる福音書」(6)に出てくる言葉だそうです。

今日の北海道新聞の「ひろさちやのほどほど人生論」。
以下、その一部を紹介します。

わたしたちは安易に人を裁いていませんか。
親が子に、「あなたのこの点がよくない」と決め付けるのは、
子を裁いているのです。
妻が夫の、夫が妻の欠点・弱点を言い立てるのも裁きです。
隣人に対しても同じです。

もちろん、司法官は裁判をせねばなりません。
「人を裁くな」というのは、裁判所の否定ではないのです。
イエスの言う「裁き」は、われわれが他人のとった行動に対して、
「わたしであれば、あんなことはしないのに・・・」と思う。
それが裁きなんです。

その人の行為そのものは法律で罰せられるでしょう。
しかしわたしたちが、それを愚かで間違った行為だと決め付け、
あのような行為をする必要はなかったと思うとき、
わたしたちは人を裁いているのです。
なぜなら、もうすでにその人はその行為をしてしまったのであり、
取り消し不可能だからです。

私たちは日常生活の中で、いかに人を「裁いている」か、
これを読むととても考えさせられます。

「あの人のここが良くないところ!」
「もうちょっとこうなってくれればいいのに・・・」。

さらに「人間誰でもいい面を持っている」とちょっと聞こえのいい発言さえ、
「裁いている」ように思えなくもありません。
そう決め付けているに過ぎないと言われればそれまでですよね。

1週間ほど前に「I think」という記事を書きましたが、
何となくそこにも通じるような気がしました。

私たちが普段感じていること、他人に対して思うことは、
あくまですべてが「I think」であり、絶対的なものではないということですよね。
そこを意識するかしないかで、
人間関係はまったく変わったものになるのではないかと思います。

私たちは神様ではありません。
みなそれぞれに欠点を持っています。
いや、ある人にとっては欠点に思うことことでも、
他の人にとっては、それが長所に映るかも知れません。

つまり、その人によって、その時によって、その状況によって、
長所も欠点も入れ替わるということだと思います。

私たちが人を「裁く」とき、その多くは私たちの「都合」に過ぎないのではないかと思います。
自分にとって「都合の悪いこと」「都合の悪い人」を排除する。
それが「裁き」といえるかも知れませんね。

ん? でもそう考えてみると、
この記事自体も過去に書いた記事も「裁いている」ことになっちゃうのかな?

う~ん、「人を裁かない」ってなかなか難しいですね。
私には無理かも知れません。
しょせん人間ですから・・・。

まあ、あまり「人から裁かれない」ように気をつけるとするか・・・。

でも、それはそれで何だか「偽善者」っぽい感じもするしなあ。
何だかわけがわからなくなってきましたが、今日はここまで。
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by sawayoshi45 | 2006-04-20 23:38 | 人生のこと | Comments(5)

成功論、失敗論

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「しょっぱいチョコ」って食べたことあります?
早速買ってみました「カカオ99%」。
「ひと口ぐらいなら」と思いきや・・・、
1ラウンドKOです・・・。



20代の頃は、「成功論」を語った本を良く読みました。
世の中で「成功者」と呼ばれている人たちが
「成功するためには・・・」と語っているのをむさぼり読んだ時期もありました。
その頃は、私もまだ「野望」でギラギラしていた、
つまり「上ばかり見て歩いていた」時期だったのかも知れません。

今は、そういった本を読むことはほとんどありません。
もちろん「野望」を失ったわけではありませんが、
「成功論」よりも、どちらかと言うと「失敗論(?)」のほうに目が行くようになりました。

大きな失敗をして自己破産した人や、ホームレス経験のあるような人が、
自分の「失敗談」を語っているのをよく好んで読んでいます。

「自分がそうなりたくない」という気持ちが強いからなのかもしれませんが、
こちらのほうが「人間の本質」をついているような感じがしますし、
何となく「奥深さ」や「優しさ」を感じます。
「自分の弱さ」を正直に語っている著者に共感をおぼえてみたり・・・。

「成功論」から学べることは、成功するための「方法論」ですが、
「失敗論」から学べることは「真の人間学」、そんな気もします。

「明るい場所(上の立場)から暗い場所(下の立場)は見えないけど、
暗い場所(下の立場)から明るい場所(上の立場)はよく見える」
というのは本当なのかも知れませんね。
子供がオトナの「痛いところ」を鋭く突いてくることがあるのも、そのためだと思います。

「成功論」とは、あくまでその人が成功した方法であって、
万人に通じるものではありません。
もちろん参考になる部分もたくさんありますが、
仕事の内容が違えば、成功の仕方も違うはずです。

それに「成功」そのものの定義も曖昧ですし、一時的なものである可能性もありますよね。
ちょっと前まで「成功者」と崇められていた人が、
一夜にしてすべてを失ったというのは、よく聞く話ですし・・・。

人間は「成功」からよりも「失敗」から学ぶことのほうが多い、とよく言われます。
自分の経験でも、うまくいっているときはその状態がずっと続くと思いがちで、
あまり物事を深く考えることをしなくなります。

「失敗」して、初めて自分の浅はかさに気付くこともあります。
でもまた、うまくいきだすとあまり考えなくなる。
「驕れるものも久しからず」といったところでしょうか。
まあ、だからこそ人生は面白いと言われれば、そんな気もしますが・・・。

ただ、そう考えてくると、
「成功経験者」(あくまで経験者であって成功者とはあえて書きません)から、
「成功した方法」を学ぶことももちろん必要かも知れませんが、
「失敗経験者」(こちらもあくまで経験者であって失敗者とは書きません)から、
「なぜ失敗したのか」を学ぶことも大切なこと、そう思います。

というわけで、今日は「成功」とも「失敗」とも言えないような、
何だか中途半端な位置のまま10年間過ごしてきてしまったサワダの戯言でした。
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by sawayoshi45 | 2006-04-18 23:33 | 人生のこと | Comments(8)

損得勘定

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妻が「カカオ72%」というチョコを買ってきました。
ひとくちつまんでみたら、これが苦いのなんの!
「99%」ってやつもあるそうな。恐ろしや。
でも、体にはいいらしいですよ。



「損得勘定」というと、あまりいいイメージはありませんよね。
「損得勘定ばかりしている人間」というと、何だかイヤ~な感じもします。

でも、まったく「損得勘定」のかけらもない人間って、この世にいるんでしょうか? 
人間である以上、多かれ少なかれ、誰にでもあるのではないかと私は思います。
それをオモテに出すか出さないか、それだけの違いではないでしょうか。

例えばボランティア活動に参加する。
確かに報酬を頂くわけではないので、一見「損得勘定」のない活動のように見えます。

でも、突き詰めて考えてみると、
ボランティアに参加して、「善いことをしている」という自分に酔っていることもありますし、
それによって「いい人」と思われようとしている自分が見え隠れすることもあります。

学校でのボランティア活動というのも、
学校にとっては「学校のイメージアップのため」、
生徒にとっては「内申書を良くするため」という匂いもプンプン感じられます。

ボランティア活動自体を否定したいわけではありませんし、
そういった気持ちを持ってはいけないと思っているわけでもありません。
そういった自分を「認める」ことが大事なんじゃないかということです。

「偽善者」という言葉がありますが、私は人間である以上、
ある意味、誰でも「偽善者」だと思っています。
だいたいにして、この世に完全なる「善」が存在するのかどうかさえ疑問を持っています。

私たちが「善」だと思ってやっていること、
それが自然や地球全体、宇宙にとって本当に「善」かどうかは誰にもわかりませんよね。
すべてが人間のただの「思い込み」に過ぎないのかも知れません。

自分こそは「善」だと信じて疑わない人をたまに見かけます。
口を開けば自分の自慢か他人の悪口。
一見、「自信満々の人」にようにも見えますが、私の経験で言わせてもらうと、
人間、自信のないときほど虚勢を張る傾向があるような気がします。

まあ、私にもそういった時期がありましたので、
そういう人の気持ちもわからないわけではありませんが、
やはり、ちょっと付き合いにくい相手であることには違いありませんね。

「本当に頭のいい人はバカのふりをして、頭の悪い人ほどインテリぶる」と、
何かの本で読んだことがありますが、これも一理ありそうです。

それに、よく考えてみれば、
本当に「自信のある人」の周りには、自然に人が集まってくるわけですから、
自慢する必要もなければ自己アピールする必要もありませんからね。

先日の記事でも書きましたが、
「自信のある人」とは「自分を正しいと信じる人」ではなく、
「自分の弱さや卑しさを認めることができる人」だと私は思っています。

「損得勘定」を持つことが悪いことだとは思いません。
心のどこかで「損得勘定」をしてしまう自分を認めることが大事なんじゃないか、
そう思います。

そういった自分を認めることで、
他人への「思いやりの心」も芽生えてくるのではないか、
そんな気がします。

ま、これも私の「思い込み」でしょうけど・・・。
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by sawayoshi45 | 2006-04-17 23:56 | 人生のこと | Comments(6)

文化に触れる

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札幌にもようやく「春が来た!」って感じです。
あともう少しで、サクラを観ることができます。
意味もなくワクワクしているサワダでございます。




絵心があるわけではありませんが、絵や芸術品を観て歩くのは嫌いではありません。
楽器が弾けるわけではありませんが、音楽を聞くのは好きなほうです。
詳しい知識があるわけではありませんが、月に数回は劇場に足を運びます。
自分でやるわけではありませんが、スポーツを観るのは大好きです(特に野球)。

芸術も音楽も映画もスポーツも、
私たちの生活に必要不可欠なものというわけではありません。
極端な話、こういったものがなくても人間は生きていくことができます。

人によっては、それらは「無駄なもの」と言う人がいるかも知れません。
でも、そう言ってしまえば、
勉強も含めて世の中のほとんどのものが「無駄なもの」になってしまいます。

「無駄なもの」を一切省いた味気ない生活、う~ん、考えただけでもゾッとします。
私にはとても耐えられませんね。

何か物事をするとき、「何のためにするのか」と、
必ず「目的」を求めようとする人がいます。
「目的があればやるけど、そうでなければやらない」という考え、何だか寂しいですよね。

それに最近は「遊び」まで、目的化しているような気さえします。
「将来、頭のいい子供に育てるためには、小さいうちにこういった遊びをさせたほうがいい。
だからこういった方法で遊ばせよう」、といったように。

でも、「遊び」が目的化してしまうと、
それはもはや「遊び」ではなくなるような気がしてしまいます。

目的なんか考えず、ただ面白いからやる。
何だかよくわからないけど、時間を忘れて夢中になる。
これが本当の「遊び」だと私は思うのですが、みなさん、いかがでしょうか?

科学は生活を便利にしますが、文化は生活に潤いを与え、心を豊かにしてくれます。

毎日、忙しい生活を送っていると、どうしても「文化に触れる」機会が少なくなりがち。
でも以前の記事でも書いたように、「忙しい」とは「心を亡くす」こと。
どんなに忙しくても、心を亡くさないために、少しでも「文化に触れる」時間を持つ、
そんな「心の余裕」は失いたくないですよね。

特に教育に携わる人間にとっては、とても大事なことだと私は思っています。
「遊び心」のない人間が、子供に「楽しい授業」を提供出来るとは私には思えません。

というわけで、学校の先生の「忙しさ」が最近ちょっと気になっているサワダでございます。
まあ、学校や先生にもよるんでしょうけど、
「学校の忙しさ」は、何とかならないものでしょうかねぇ。
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by sawayoshi45 | 2006-04-14 23:45 | 人生のこと | Comments(3)

本末転倒

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本州は大荒れのようですね。
札幌も今日は風がとても強かったです。
う~ん、明日は恐ろしいことになるかも・・・。




ものごとがなかなかうまくいかない時、自分自身を振り返ってみると、
「本末転倒」になっていることが多いような気がします。

私は塾を辞めて個人で活動するようになって、
最初は生徒が欲しくてしょうがない時期がありました。
こういう時は「生徒を集めるために何かしなければ・・・」
という気持ちばかりが先走ってしまいがちです。

必要以上に自分を大きく見せようとしたり、
何だか自慢めいたことを口走ってみたり・・・。
まさに「本末転倒」状態です。

でも、実はこれが逆効果になっていることってありますよね。
もちろん自分を売り込むことも、ときには必要なことだと思いますが、
それ以上に大切なことを忘れては何にもなりません。

「それ以上に大切なこと」、それは、言うまでもないことだとは思いますが、
「今目の前にある仕事をしっかりとやる」ということに尽きると思います。
私の場合であれば、今受け持っている数少ない生徒さんに、
「わかりやすい授業」「楽しい授業」を提供するということですね。

おもしろいもので、こちらに意識を持っていくようになってからは、
特に自分を売り込むことをしなくても、自然に生徒さんが増えてくるようになりました。
ただ、増えてくるにつれて、また「お調子者」という私の悪い病気(?)が芽を出し始めます。
うまくいけばうまくいったで、どこかで「驕り」や「慢心」の気持ちが出てくるわけで、
そのあたりのコントロールって難しいですよね、やっぱり。

その度に自分に言い聞かせて、「軌道修正」をしながら、
今まで何とかやってこられたのだと思います。

「上を向いて歩く」ことも大切ですが、
たまには「下(足もと)を確認する」というのも必要なことだと思います。
上ばかり見ていたら足もとをすくわれますからね。
ちょっと古いですが、
ホリエモンの失敗も「上ばかり見て歩いていた」ことが原因のひとつのような気がします。

世の中をみてみると、「上を向いて歩く」ことばかりが良いこととされて、
この「下(足もと)を確認する」ことが軽視されているような気がしてなりません。
「明るい」「積極的」「プラス思考」は良いことで、
「暗い」「消極的」「マイナス思考」は悪いこと、とされています。

たしかにどちらが良いか問われれば、私も前者を選びますが、
あまりに前者ばかりが持ち上げられると、
「あまのじゃく」の私は「ちょっと待てよ」という気持ちにもなります。

夢や野望を持って、それに突き進むのもいいですが、
「本末」の「本」の部分だけは、常に忘れないよう気をつけたいものですよね。
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by sawayoshi45 | 2006-04-11 23:38 | 人生のこと | Comments(4)

コンプレックスこそパワーの源

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中日対巨人の1回戦。
息詰まるエース対決の結末は・・・、
中日、立浪選手のサヨナラ満塁ホームラン!
さすがです!!



夜中のバラエティー番組に、アントニオ猪木さんが出演しているのをたまたま見ました。
別に彼のことが好きとか嫌いとかいうことではないのですが、
彼の「パワーの源」は、実は「コンプレックス」であるという話に目が留まりました。

アントニオ猪木さんといえば、やはりあの「アゴ」がトレードマークですが、
本人にとっては、それこそが最大の「コンプレックス」だったそうです。
他にも貧乏だったことなど、たくさんの「コンプレックス」を抱えていたそうです。
でも、だからこそ厳しい練習にも耐えられた、というような内容でした。

「一流のスポーツ選手の方が、実は子供の頃は病気がちで体が弱かった」
「テレビで活躍している芸能人が、実は子供の頃はすごい貧乏だった」
というのは、よく聞く話ですが、これも多分似たようなものではないかと思います。

「コンプレックス」が強すぎるのも、それはそれで問題ですが、
「コンプレックス」があるからこそ、人間は頑張れるのかも知れませんね。
「オレは偉い人間だ!」と思った時点で、その人の成長は止まってしまいます。

そういう意味では、
「コンプレックス」や「不安」を持ち続けることこそが、
実は、私たちの生きるエネルギーになっているのではないか、
そんな気がしてきます。

私も「コンプレックス」をたくさん抱えて生きてきた人間。
でも、この「コンプレックス」があるからこそ、
逆に、前向きに生きていけるのかも知れませんね。

そういえば昨年、ウチの近くの温泉でアントニオ猪木さんを見かけました。
たしかに間近で見ると、すごい「アゴ」だったような気がします・・・・・。
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by sawayoshi45 | 2006-04-08 01:05 | 人生のこと | Comments(4)

忙しい

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横浜高校、優勝おめでとう!
ちなみに写真は、勿忘草(わすれなぐさ)。
あまり関係はありませんが、今日の誕生花です。




「忙しい」という字は「心を亡くす」と書きます。

ですから私は、どんなに忙しいと思っても、
「忙しい」という言葉はなるべく口にしないようにしています。
口にしてしまうと、「本当に心を亡くしてしまうんじゃないか」、
そんな気がするからです。

言葉には魂が宿ると言いますからね。

子供たちの中にも、この「忙しい」や「疲れた」を連発する子がいます。
部活をしているわけでもない、
受験勉強をしているわけでもない子供たちが「忙しい」を連発します。

逆に、こちらから見ると、とても「忙しい」生活をしているのではないかと思われる子ほど、
「忙しい」や「疲れた」という言葉を発することもなく、
むしろ活き活きとしているように感じます。

「忙しい」や「疲れた」を連発する子には、
具体的に「何が忙しいのか」、
「どうして疲れているのか」ということをはっきりさせるようにします。
ほとんどの場合は、「忙しい」も「疲れた」も、ただの口癖になっているだけで、
「何もしていない」ことの言い訳に過ぎないことがわかります。

いや、本人の中では本当に「忙しい」し「疲れて」いるのかもしれません。
でもそれも、言葉が先であって、それを言うことによって、
本当に身体のほうも「疲れて」しまっているケースが多いような気がします。

結局、「忙しい」とか「疲れた」というのは、
体力的な問題というよりは、精神的な問題であることが多いのではないでしょうか。

同じ「忙しい」でも、
「よーし、忙しくなってきたぞ!先が楽しみだ!」というように使う場合と、
「どうしてこんなに忙しいんだ!なんでオレばっかり・・・」という意味で使う場合があります。

同じ「疲れた」でも、
「やりきった!」という充足感を味わっての「疲れた!」と、
「何だかわからないけど、何となくだるい」という「疲れた~」があります。

どうせ同じ言葉を発するのなら、どちらも前者の意味で使いたいものですよね。

「生活」とは、「活き活きと生きる」と書きます。
現代人は、「忙しい」という言葉を連発することで、
「心を亡くした生活」をしているのではないか、そんな気がしてなりません。

というわけで、本当の「忙しさ」をまだ知らないサワダの戯言でした。
まあ、その分、心はまだ亡くしていないつもりではありますが・・・。
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by sawayoshi45 | 2006-04-05 00:22 | 人生のこと | Comments(4)


【札幌の家庭教師 学びの森】   サワダと申します。


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MAPさん ありが..
by sawayoshi45 at 10:48
お誕生日おめでとうござい..
by MAP at 07:39
とても魅力的な記事でした..
by 株のやり方 at 17:27
>missKaytieさ..
by sawayoshi45 at 01:16
お誕生日おめでとうござい..
by missKaytie at 17:25

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